「水都・大阪」近未来へのビジョン
~関西州中核都市「大阪」の50歩先が明るく見えた~
「水都・大阪」推進委員会第2分科会では、2003年4月の提言以来、積極的な活動を積み重ねてきた。
大阪の水辺は、かつては街の動脈、生活の表舞台であったが、都市の急速な成長とモータリゼーションの中で、人目につかない都市の裏側へと押しやられ、川の水も汚れ、务悪な環境になっていた。また、経済社会情勢はバブル崩壊後の不況下にあり、大阪は特に厳しい状態にあった。
しかしながら、当分科会は、大阪の復活のキーファクターは、固有の資源である「川」に拠り所を求め、「水辺の景観や文化、歴史」を生かした街づくりを行い、他都市とは違う“固有の美しさ、楽しさ、そして誇り”を取り戻すことにあると考えた。
大阪は淀川の河口にあり、我が国の歴史上も政治経済的に重要な役割を担ってきた。遣隋使等の大陸との交流の湊であり、京からの舟運が上町台地から熊野街道に繋がる拠点が八軒家浜であった。江戸時代以降、町は河口から西へ海に広がり、縦、横に水路を持つ風情のある商都が生まれ、経済の活況に加え、文芸の花咲き誇る世界有数の大都市であった。近代以降も、その賑わいと、「水都」としての地位は揺らがなかった。ところが、モータリゼーションと東京一極集中の中で事情は大きく変わった。
最近のアンケート調査((株)かんでんCSフォーラムが実施、近畿圏以外の1566名が回答)で、「水の都」としてイメージする都市の順位は、1位ベニス、2位パリ、3位大阪であった。一般には「水都・大阪」のイメージは浸透している。一方、大阪を「水の都」と呼ぶことについて、ふさわしいと思っている人は約20%に留まる。ふさわしくないと思う理由は、「川は多いが、汚い」、「水路が発達していた昔の面影がなくなっている」等となっている。「水都・大阪」の認知は進んだが、残された課題も窺える。
また、大阪市の総面積に占める公園面積は約4%で、東京と同じである。一方、河川の面積は約9%で、東京の約5%を上回る。「水都・大阪」では「川、水」を軸にした街づくりは必然でもある。
何処にでもある道路を中心にした高度成長期型の街づくりは、大阪の本来持つ都市の個性を失い“格”を下げてしまう懸念がある。当分科会は、人々の意識の中に川を蘇らせ、川への愛着と誇りを持ってもらう地道な活動からスタートした。大阪の水辺の賑わいは、春の造幣局の桜の通り抜け、夏の天神祭りが定番であるが、新しく熊野街道ウォーク、中之島物語、光のルネサンス、春・秋の舟運まつり、中之島ミュージックカーニバル等様々な催しが、中之島を舞台に幅広い市民の参加を得て行われている。
大阪の祭りに、舟運の参加は不可欠であるが、中之島に架かる多くの橋が低く、満潮時等は水面すれすれとなり、舟の動ける範囲は制約されている。中之島一周航路等の魅力ある水上観光コースを実現するためにも、橋を嵩上げして舟が自由に周遊できるようにする必要がある。
中之島を舞台にした市民参加による街づくりも、世界的な建築家の安藤忠雄氏の呼びかけで始まった「平成の通り抜け」運動、元当会代表幹事の寺田千代乃氏(アートコーポレーション社長)等の呼びかける「美しい大阪をつくる100万本のバラの会」運動が大きな盛り上がりを見せている。その結果、川を意識し、川に親しめる街づくりを進める世論が形成された。
「水都・大阪」実現への突破口として取り組んだ“八軒家浜の復元”から市民主導の街づくりが広がり、さらに行政、財界の理解の下、“八軒家浜の復元”事業着手に至り、その他の提言・提案された事業も実現に向いつつある。現在の中之島を中心に「水都・大阪」に向かう動きを取り纏め、当委員会の検討を踏まえ、今後の「水都・大阪」の近未来へのビジョンを展望すると、関西州中核都市「大阪」の50歩先が明るく見えた。
平成19年12月
社団法人 関西経済同友会
「水都・大阪」推進委員会(第2分科会)